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*写真・文の無断転載はご遠慮ください。

「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」は東京都大田区大森にあり、家族による運営で、月数回のオープンハウスのみの開館です。(〒143-0024 東京都大田区中央3-12-4 イングルサイドハウス大森1F/fax.03-3771-0687)

オープン日・予約などの詳細は、記念館ホームページをご参照ください。→ http://club.pep.ne.jp/~r.miki/
花子さんの書斎と応接室に招かれたような、お茶会風のオープンハウスです。小人数のサロンのような和やかな雰囲気のなか、アンやプリンスエドワード島、花子さんのことなどお話が弾みます。

 村岡花子さんの略歴はこちら

(取材日:2001年7月18日)

村岡花子さんのお孫さん、美枝さんがご案内くださいました。
おばあ様の村岡花子さん、お母様の村岡みどりさんと同じく、美枝さんご自身も「アビゲイルの求婚者」(モンゴメリ原作・A.クーパー作/金の星社 1994),「オーリーのぼうけん」(ロジャー・スミス作/ベネッセコーポレーション1991)など、児童文学の翻訳に携わっておられます。 また美枝さんが1989年カナダでなさった素晴らしい英文スピーチは、記念館ホームページで読むことができます。

〔村岡花子さんの仕事机〕
今も当時のまま、残されています。
机の上の原稿用紙は、戦時下に家中の原稿用紙をかき集めて翻訳した「赤毛のアン」自筆原稿。
 カナダ系の名門ミッションスクール、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)で学んだ村岡花子さんは、1939年に カナダの友人から1冊の本を手渡されました。
その本、[Anne of Green Gables(1908年12月版の第7版)](写真机上左の茶色の本/装丁は初版と同じ)は、1908年6月に初版が出た後、わずか半年で7版が出版される人気でした。

感銘を受けた花子さんは、開戦とともに帰国した友人への「友情の証」としてコツコツと翻訳を続けたそうです。空襲警報が鳴れば原稿用紙と本を抱えて防空壕に逃げ込むような毎日、しかも敵国の小説を密かに翻訳する・・・文字通り、命懸けの作業が続けられたのでしょう。「赤毛のアン」翻訳にこめられた花子さんの思いが、私達をこれほどまでに夢中にさせる理由かもしれません。戦後、1952年にようやく三笠書房から「赤毛のアン」として刊行され、大好評を得ます。その後、新潮社から刊行されるようになり、アンシリーズ10冊をつぎつぎに上梓、花子さんのライフワークともなります。
「赤毛のアン」という親しみやすく印象的な題名は、お嬢さんのみどりさんの助言で決められたそうです。

ちなみに、机の後ろの[Webster's third New International Dictionary]は、ご主人からのプレゼントだそうです。当時としては珍しく、ご夫婦並んで歩く姿が評判だったとか。印刷会社を経営されていたご主人は、翻訳の上でも良きアドバイザーであり、まさに理想的なパートナーだったのですね。


[道雄文庫ライブラリー看板と当時の子どもたちの写真]

村岡花子さんは、大森の自宅で「道雄文庫ライブラリー」を1952年に開設、後に「家庭文庫研究会」会長を務められるなど、文庫活動にも貢献されました。 道雄とは、わずか5歳で病気のため逝去された花子さんのご長男のお名前です。
 関東大震災で夫の会社が被害を受け、愛息子を失うという不幸の中、敬愛する片山広子さん(歌人であり、アイルランド文学をはじめて日本に紹介した翻訳家)のすすめで「王子と乞食」(M.トウェイン原作)を翻訳。1927年に平凡社から刊行され、好評を得、はじめての翻訳本となりました。この後、東洋英和で身につけた英語力を生かし、日本中の子どもたちのために様々な翻訳を手がけるようになります。

また、1932年から開戦までの10年間、現在のNHKラジオ放送「コドモの時間」の中で「コドモの新聞」(こどもニュース)を担当し、「ラジオのおばさん」としても知られています。1960年には、永年の児童文学への貢献により藍綬褒章を受章されました。

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